棚の隙間

自分の好きなものを綴っていきたいと思います。

今月のおすすめ本 2023年3月号 『地球でハナだけ』チョン・セラン著 すんみ訳

 もしも、自分の恋人が(入れ替わった人物と同意のもとで)知らない誰かと入れ替わっていたら?壮大でありながらも、優しいSF小説である。

 主人公のハナは、思い出の詰まった服などをリメイクしたりするお店を経営しながらも、恋人キョンミンとの関係に悩んでいた。キョンミンは、自由奔放で世界のあちこちを飛び回って、ハナは振り回されてばかり。そんな時、キョンミンの旅行先で隕石落下事故が起こる。無事に帰ってきたキョンミンは、ハナが知っているキョンミンとは少しだけ異なっていた。少し違うキョンミンはもしや、違う誰かなのでは?と思い、ハナはその正体を突き止めようと奮闘する。

 キョンミンが誰だったのかは小説を読んで確かめて欲しい。恋愛小説でありながらも、地球のこと、宇宙のことを考えることが出来るSF小説であると感じた。同時に、よくある恋愛小説とは異なる話のように思う。恋愛というよりは、互いの意思や思い出と繋がった関係と呼べるようなものであるとも思う。私はそこに魅力を感じた。

 例えば、「愛している」という言葉がなくなったら人はどうやって愛を伝えるのだろうか?私は、「互いの名前を呼ぶこと」だとこの小説を読んで感じた。その人を愛する。それは名前を呼ぶことで、表現できるのはないかと思う。キョンミンが誰よりもハナを愛しているかは、行動を見てわかる。だけど、私は互いの名前を呼ぶときに、愛を伝えているのだと感じることが出来た。切なさや尊敬を感じることが出来た。

 美しい思い出や、意思を切り取って一つの箱に詰めたような優しくて、温かいSF小説だと思う。SF小説好きの人は勿論、環境に対して考えている人、意思や繋がりで愛を表現した作品を読みたい人におすすめ。

 

新自由主義的な社会に生きる、映画撮影となる人生について

 リテイク不可の100分の映画があって、それを人生だと表現するならば、私は30分以上主役を放棄している状態である。カメラマンや他の役者が行き来する中、私はその様子を見ているだけで私は参加していない。優しい役者(友人や家族など)が私を気にかけて、応援してくれるし、待っていてくれている。役者たちは私の現場に出入りするし、自分の撮影(人生)をこなしている。でも、私は自分の撮影ができない。

 3,4年前から、メンタルクリニックに通っている。メンタルクリニックに通う前、私は自己肯定感などの考え方を変える心理学系の本を読み漁っていた。自分がダメだと思うのは、自己肯定感が足りないからだと思っていた。気分は落ち込むし、希死念慮もある。この苦しさは一体なんなんだ?子供の時から、希死念慮というよりかは、死に対して割と身近に感じていたタイプではあった。でも、今までの希死念慮とは違うと自分で感じた。言葉にすると難しいが冒頭の映画撮影で例えると、もう現場に居たくないって考えて撮影をやめてしまうと言う気持ちだった。(それまでは撮影現場を眺めているみたいなものだった)結果的に、うつ状態という診断を受け、投薬と通院をしている。

 診断された時は、「ああ、そうか」と言う謎の落ち着きと、自分が不器用でダメだった訳じゃないんだなという安心感だった。今まで、自分の撮影現場を眺めているだけに思えたのも、そのためかと納得した。(今も撮影できていないも同然だけど)

 メンタルの問題を抱えることは、珍しいことではないことだと誰かは言ってくれるかもしれない。だけど、私は日々メンタルの問題を抱えて生きることは「当たり前」とは思えない。(あくまでも、私の場合だが)疲れたりすれば希死念慮が出るし、眠りも浅い。午前中はなんだか頭が働かないし、集中力もないし、難しいことではない事でも理解できないし、気分の波もある。出来れば、この「当たり前」から解放されたい。病院の為に仕事を早退しなくちゃいけないし、面接の時にはいつも月一の通院で早退する事を伝えなくちゃいけないのかも迷う。企業は即戦力になる人が欲しくて、休まずに働いてくれる人を求めていると感じるから、私は常に迷わなくてはいけないし、悩んでしまう。

 そんな生き方をしてきた為か、新自由主義的な社会に、私たちはそろそろ声を上げる、反対するべきではないか?と思う。多様性はなく、常に自分が役に立つことをアピールしなくてはいけない世界。自分の存在が、誰かの存在を全て役に立つか、立たないで決まる、この世界に。映画撮影(人生)は誰でもすることだ。だが、ある日突然その映画は役に立たないので撮影は延期ですと言われたら?人生を映画撮影に例えること自体が良くないかもしれないが、一人ひとりが生産性の価値観で命を選別されるのは間違いだと思う。福祉を切り捨てて、その日の暮らしだけを考える。そんな社会は社会と言えるのだろうか?

 新自由主義的な自己責任は、私がメンタルクリニックに通う前に陥っていたものと似ている。自分が社会でやっていけないのは、自分のせいだと思っていた。その自己責任型の社会は、適切な治療を受ける機会を妨げるのではないのかと思う。今、困難な状態にあるのは自分のせいだけではないという視点を持ちながら、他者を尊重する社会が社会としての在り方ではないか?と感じる。私は常にその事を問いかけていきたいと思っている。そして、自分の撮影がまた再開出来れば良いと思っている。

 

フリーペーパーを久しぶりに作ってみた話

 三か月位、ブログとフリーペーパーを放置していたので、そろそろ書かねばならないと思い、フリーペーパーを久しぶりに書いてみた。フリーペーパーは、書いたらブログにこまめにアップしようとしたけれど、全然出来ていない。出来るといいのだが。

 それから、自分のホームページをWordpressで作ってみようかなと考えている。そこに、もしかしたら本の感想をアップして、こちらはフリーペーパーを載せるだけにするか、退会するのか。少し考え中。本だけの感想を書きたいわけではないので、もしかしたら本以外のことで、このブログを続けるかもしれない。取りあえず、今はWordpressと新しい資格試験に向けて勉強中だから、多分だいぶ先になると思う。

 

 

期日前投票に行ったことを書き残す話

 酷暑の中、期日前投票に行ってきた。と言っても、用事があって出かけたついでに行ってこようと思ったからだ。当日は行けなさそうだし。軽い感じで投票に出かけた。平日だったこともあり、並ぶことなく投票出来た。

 今まで期日前投票に行ったことはあるけれど、敢えてそれをブログでお知らせしようと思ったのが選挙大事だなと思うことが単純に増えたからである。働いていてもお金は貯まらないし、貧困問題は益々拡大しているし、老後は2000万貯めなくちゃ生きていけないよ、なんてクソみたいなことを政府が堂々と発言するし。とにかく、今の政府がくそ過ぎるのだ。私にとって。だから、変えたいので選挙に行った。それだけ。

 選挙は自分の意見を表明する場でもあると思っている。自己責任がこれほど叫ばれている世界はおかしくないか?とか、少しでも社会に対して思うことがあれば選挙に行って、現政権に対しての自分の意見をぶつけるのは大切だと思う。賛成していなくても何も意見を言わないならば、それは自分の意見が他人に都合の良いように解釈されてしまうと思う。それに、後から何を言っても「あの時何も言わなかったよね?」なんて言われてしまうと何も言えないし。

 そういうわけで、7月10日は選挙の日!当日いけないならば期日前投票をすることが出来るので、用事を済ませてから選挙に行くのもいいかもしれない。この社会に対して、少しでも疑問があれば選挙に行って欲しいと思い、敢えて書き残した。

フリーペーパーを書いてみた話

 本を読んだり、音楽を聞いたりと自分の趣味がやや受け身な趣味だと思ったので、何か自分で創作できるものを趣味にしたいと考えている。ブログは確かに創作系の趣味にあたるかもしれないがこまめに更新しているわけではないし、ネットいう公の場に載せる以上は文章を推敲して考えなくてはいけないと考えると、リラックスして楽しめる趣味なのかと言われると疑問に思ってしまう。気まぐれに書いて、リラックスして楽しめる趣味は何かと考えて、前からフリーペーパーを作りたいと考えていた。絵も描けないし、イラストソフトを使ったわけではないので、本当にシンプル。悪く言えば、ダサい。Wordで何とか作ってみたので、頑張りだけでも見て欲しくてTwitterにもアップした。フリーペーパーの著作権など分からないことが多いので、何か問題があればすぐに消そうと思っている。一応、ブログにも宣伝ということで載せて置こうかと思う。ブログだと長くて時間がない人でも、フリーペーパならば気軽に受け取ってもらえるかもしれない。もし、誰かが私のフリーペーパーを見て、この本を読んでみたいと思ってくれたら嬉しいなと思う。B5設定してしまったので、見にくいかもしれないです・・・・

 

今月のおすすめ本 2022.7月号『ダリウスは今日も生きづらい』アディーブ・コラーム著 三辺律子訳 集英社

 しばらく本についての感想を書く元気がなかったけれど、今回は書けそうな気がしたので書いてみることにした。

 主人公はイラン人の母とアメリカ人の父を持つペルシア系アメリカ人。とある理由から、母の故郷であるイランのヤズドを家族で訪れることから話は始まる。以下、公式サイト。

www.shueisha.co.jp

 主人公はアイデンティティに悩むこともそうだが、父親との関係で悩んでいたり、自身がうつ病で、悲しい気持ちや落ち込んだ気持ちが自分の意思に関係なく出てくることにも悩んでいる。私はダリウスのように複雑なルーツはないけれど、自分の健康状態で悩むことは理解できたような気がする。

 私もうつ病ではないけれど、うつ状態で通院して、薬を飲んでいる。ふとしたきっかけで、悲しい気持ちや気分の落ち込みが襲ってくる。そうなるのはうつ状態のせいだって、頭では分かっていても止められない。イライラするようにもなった。ダリウスにも所々そういった場面が出てくる。でも、ヤズドに行ってダリウスはソフラーブという親友と出会う。アメリカの学校や家でも居場所がないと感じていたダリウスにとって精神的な居場所になっていく。ソフラーブはいつも穏やかで、気持ちを察してくれるダリウスのよき理解者だ。だけど、ソフラーブも父親について、宗教的マイノリティであることから色々悩んでいることもダリウスに打ち明ける。二人は居場所がないことを繋がりに、互いに精神的な居場所になっていく。

 後半、とある出来事でソフラーブとダリウスの間に溝が出来てしまう。その時にソフラーブがダリウスに向けて言った言葉が私に向けられているようで悲しかった。

「泣くな!(中略)ダーリーウーシュには何も悪いことなんて起こってない。なのに文句ばっかり。人生で悲しいことなんて何もないじゃないか」P350

 そう、私自身には悲しいことなんて起こっていない。少なくとも私はソフラーブみたいに傷ついてはいない。何も悪いことなんて起きていない。だけど、どうして悲しいのか、苦しいのか自分でもよく分からない。それでも、圧倒的な悲しみを前にした人に自分の悲しみを比べてしまうのだと思う。

 ソフラーブは今まで、周りと自分の間に薄い膜を張って生きてきたんだと思う。いつも穏やかで、相手の気持ちを汲み取ってくれるその姿は、居場所がなかった彼が周りと衝突しないようにするための方法だったのかもしれない。仮に私がダリウスの立場だったら、悲しみと絶望を感じてしまうと思う。見放されたというよりは、自分と同じだと思っていた彼と自分は同じ人間(=共有)ではなかったと感じてしまうと思う。その後のダリウスとソフラーブがどうなったのかは実際に読んで個人個人が感じて欲しいなと思う。

 私が思うにこの話は、立ち直る話ではないと思っている。物語の中で出てくる問題から、立ち直っていないこともある。でも、立ち直っていない。でも、大丈夫。取りあえず立っていて、自分が愛されている、誰かを愛しているのを知っていることだと分かるまでの話だと思った。ダリウスの一人称で語られ、読みやすいのでぜひ読んでみて欲しなと思う。

自身について

 最近、自分が酷く投げやりな態度を取るようになったなって思った。本は読むけど、ブログを書くこともしなかったし、前は本すら読めなかった。頭の中で言葉は浮かぶけど、実際に書きだすことが難しく感じるようになった。

 2、3年位前からメンタルクリニックに通院している。前からあった生理前の気分の落ち込みが酷くなったから。生理前になると、希死念慮やイライラ、不安、悲しみがあった。「まあ、生理でそうなる人もいるんだな」くらいにしか捉えていなかった。偶々見たYouTubeの動画で、私のような症状になっている人が紹介されていた。外国の放送局が公式でYouTubeに流していたものだった。日本語訳が付いていて、それで内容を理解した。私の症状は、もしかしたらかなり重い方なのかと思って友人に聞いたりした結果、どうやら自分の症状は重いことだと気が付いた。病院を探して、最初は心療内科に行った。半年たっても症状が良くならないので、メンタルクリニックに変えて「うつ状態」と診断された。

 別にうつ状態だから投げやりになったとは、自分では思っていない。その前から、いつとは正確には言えないけれど、子供時から。人より不安に感じることが多かったし、心配性で、神経質なタイプだった。結局、自分は絶望しやすかっただけかもしれない。子供時から不器用だったし、要領が悪いタイプだったから、尚更絶望してしまったのかもしれない。何となく、自分はこの社会を生きていくのは厳しいかもしれないと小学生の時に感じたし、思えばその時から私の中の希死念慮は始まっていたのかもしれない。自己肯定感を高めようとか、自分を褒めるとか、空しく感じてしまう。とにかく、自分の中の希死念慮をどうにかしないと、私は永久に自分を褒めることは出来ないし、自己肯定感云々の話に持っていけない。自分の人生なのに、何処か投げやりになってしまっている。でも、貧困とかの社会問題を解決したいとも思っている。自分でもよく分からない行動をしているなとは思う。

 感染が収束したら、心理検査を受けさせてもらえるらしい。そうしたら、私の何かが分かるだろうか。