棚の隙間

自分の好きなものを綴っていきたいと思います。

新自由主義的な社会に生きる、映画撮影となる人生について

 リテイク不可の100分の映画があって、それを人生だと表現するならば、私は30分以上主役を放棄している状態である。カメラマンや他の役者が行き来する中、私はその様子を見ているだけで私は参加していない。優しい役者(友人や家族など)が私を気にかけて、応援してくれるし、待っていてくれている。役者たちは私の現場に出入りするし、自分の撮影(人生)をこなしている。でも、私は自分の撮影ができない。

 3,4年前から、メンタルクリニックに通っている。メンタルクリニックに通う前、私は自己肯定感などの考え方を変える心理学系の本を読み漁っていた。自分がダメだと思うのは、自己肯定感が足りないからだと思っていた。気分は落ち込むし、希死念慮もある。この苦しさは一体なんなんだ?子供の時から、希死念慮というよりかは、死に対して割と身近に感じていたタイプではあった。でも、今までの希死念慮とは違うと自分で感じた。言葉にすると難しいが冒頭の映画撮影で例えると、もう現場に居たくないって考えて撮影をやめてしまうと言う気持ちだった。(それまでは撮影現場を眺めているみたいなものだった)結果的に、うつ状態という診断を受け、投薬と通院をしている。

 診断された時は、「ああ、そうか」と言う謎の落ち着きと、自分が不器用でダメだった訳じゃないんだなという安心感だった。今まで、自分の撮影現場を眺めているだけに思えたのも、そのためかと納得した。(今も撮影できていないも同然だけど)

 メンタルの問題を抱えることは、珍しいことではないことだと誰かは言ってくれるかもしれない。だけど、私は日々メンタルの問題を抱えて生きることは「当たり前」とは思えない。(あくまでも、私の場合だが)疲れたりすれば希死念慮が出るし、眠りも浅い。午前中はなんだか頭が働かないし、集中力もないし、難しいことではない事でも理解できないし、気分の波もある。出来れば、この「当たり前」から解放されたい。病院の為に仕事を早退しなくちゃいけないし、面接の時にはいつも月一の通院で早退する事を伝えなくちゃいけないのかも迷う。企業は即戦力になる人が欲しくて、休まずに働いてくれる人を求めていると感じるから、私は常に迷わなくてはいけないし、悩んでしまう。

 そんな生き方をしてきた為か、新自由主義的な社会に、私たちはそろそろ声を上げる、反対するべきではないか?と思う。多様性はなく、常に自分が役に立つことをアピールしなくてはいけない世界。自分の存在が、誰かの存在を全て役に立つか、立たないで決まる、この世界に。映画撮影(人生)は誰でもすることだ。だが、ある日突然その映画は役に立たないので撮影は延期ですと言われたら?人生を映画撮影に例えること自体が良くないかもしれないが、一人ひとりが生産性の価値観で命を選別されるのは間違いだと思う。福祉を切り捨てて、その日の暮らしだけを考える。そんな社会は社会と言えるのだろうか?

 新自由主義的な自己責任は、私がメンタルクリニックに通う前に陥っていたものと似ている。自分が社会でやっていけないのは、自分のせいだと思っていた。その自己責任型の社会は、適切な治療を受ける機会を妨げるのではないのかと思う。今、困難な状態にあるのは自分のせいだけではないという視点を持ちながら、他者を尊重する社会が社会としての在り方ではないか?と感じる。私は常にその事を問いかけていきたいと思っている。そして、自分の撮影がまた再開出来れば良いと思っている。